希求
  
タル








 話の途中で、何の脈絡もなく彼女はふと口を閉じて目を伏せる。
 それは彼女が集中を始めた合図だった。私はその様を黙って見守る。彼女の白く細い指が華奢なつくりの鋏を滑らかに操り、複雑に折られた黒い紙を細かく切り抜いていく。迷いも躊躇いもなく、まるで予め決められた軌跡をたどるように、何の印もない紙の上を銀色の刃がすべっていく。
 精妙で無駄のない動きだ。例えその目的が人の目を楽しませることではなかったとしても、完成された振る舞いというのはそれ自体が美しく、見る者に純粋な感動を呼び起こす。その滑らかに動く手先、時折そっと首を傾げるたびに揺れる黒い髪、伏せられた睫毛が上下するさま。小さな金属音が穏やかなリズムを刻み、いくつかの細かな紙片がテーブルに落ちて広がる。それは取るに足らないものを排除し、あるべきものだけを存在させるための絶対的な行為に見えた。世界の因果律のように揺ぎない。見入っているうちに、いつの間にか自分自身のどこか一部が彼女の鋏でそっと切り取られているかのような、奇妙な感覚に陥った。
 そのせいで、作業が終わり彼女が静かに手元の紙を広げてみせたとき、まるで自分の内側の何かを暴かれてしまったような錯覚をした。そこにあるものが単なる紙切れなのだということを認識するまでに少し時間がかかってしまう。
 彼女の手のひらには見事な模様をもつアゲハ蝶が生まれていた。
「…ごめんなさい、何の話をしてたんだった?」
 たった今夢の世界から戻ってきたばかりというように、彼女はゆっくりと何度か瞬きをして掠れた声で呟いた。
 私は首を振る。慣れているから構わない。それに、彼女の集中している姿を観察することは私にとって純粋な喜びなのだ。
「大した話じゃないの。ただ、最近は体調はどうなのかなと思って」
「……悪くはないわ。良くもないけど。私にしては、平均点」
 彼女はそう言ってテーブルに散らばっている黒い紙片を指先で掃き寄せる。ふと、その切れ端の中に自分の重要な一部分が含まれていて、それが彼女の指先で攫われていくようなむず痒い感覚をおぼえる。自分がまだどこかでその紙片と同調してしまっているせいだ。私はなんとかそこから意識を引き離そうと目を逸らした。
「調子は悪くないけど、大学に来るつもりはない?」
 私の問いに彼女は眉一つ動かさない。
「だってもう行く理由がないもの。単位はほとんど揃えてしまったし。勿論、残りの必要な分だけはきちんと行くつもりだけど」
 それから彼女はふと思いついたように訊ねる。
「あなたは、大学って楽しい?」
 それはとても率直な質問だった。彼女はいつでも率直だ。私は答えを探してみるけれど、すぐに自分がろくな答えを用意できないことに気がついた。
「楽しいというか……とりあえず行くところがある方がなんとなく安心できるし、部屋でじっと一人で居ると気が滅入ってくるから、忙しいのは嫌だけどそれなりに通ってる方が落ち着くかな」
 なんて平凡な答えなのだろうと自分で呆れる。彼女はしばらく何も言わずに瞬きを繰り返した。よくわからない、と思っているときの仕草だ。
「私は家で一人で居る方がずっと落ち着く。こうやって切り絵をしたり、本を読んだり、音楽を聴いたり、家事をしたり。毎日同じようなことを繰り返しているのが好き」
 少し退屈なくらいが丁度いいの。彼女は頬杖をつき、自分が切り抜いたアゲハ蝶を気だるそうに指先でつつきながら呟く。
「きっと父も、私が外に出ることを余り望んでいないと思うし」
 そう言う彼女の顔には満ち足りた表情が浮かんでいた。
「学校ってどうしても馴染めない。昔からずっとそう。なんというか、雑多すぎるの。人が多くて、そのたくさんの人がみんな色々なことを考えていて、その中に居ると混乱してしまう。自分が人間の群れに迷い込んだ魚になってしまったみたいな気分になる」
 言い終えると彼女は目を閉じた。自分の内側から世界を遮断するみたいに。そして部屋に沈黙が訪れる。
 空気がしんと重みを持つような、音の不在。
 魚、と私は思う。暗い海のような人波を漂っている一匹の魚。それは確かに彼女のイメージに相応しい比喩だ。そのくっきりとした瞼のない目には、きっと人間世界のものは映りこまないのだろう。
 やがて彼女はそっと目を開けた。二つの黒い瞳が鈍く光る。
「……ねぇ、」
 その掠れた声が、沈黙を破った。
「『潜ろう』」


 力を抜いてぐったりとベッドに身を預けている彼女の薄いブラウスのボタンを、私はゆっくりと上から一つずつ外していく。腕をそっと引き抜き脇に置くとそれはするりと音を立てて床に落ちる。繊細なレースのついたキャミソールや軽い素材のスカートを脱がせ、下着を外す。少しずつ肌があらわになっていき、肌から立ちのぼる熱気が部屋の空気を変質させていく。その間彼女はほとんどされるがままになっていた。
 その作業を全て終えてから私は自分の服を脱いでいく。初めてこうしたときからそうだったし、それがお互いにとって最も適切なかたちのように思えた。
 何も身に着けていない彼女は、まるで生まれたての白い魚みたいに無防備になってしまう。閉じたカーテンから差し込んでくる夕暮れの光が彼女の肌に薄くまとわりつく。私はその細かな肌理(きめ)を息を詰めて観察する。どこまでも連続していく複雑で奇妙な模様。それをもっと知りたくなって、唇で触れてみる。そしてその例えようのない滑らかで甘い感覚を追うように、鎖骨をなぞっていく。
 はぁ、と彼女が身をよじって短く鋭い息を吐いた。その息の震えが私の脳内をかき乱す。自分よりもずっと豊かで丸い胸を見つめていると、その不思議な二つのふくらみが「触って」と耳元に囁いてくるような気がした。もっと触れたい、唇で至るところを撫で回し甘噛みして、その呼吸を震わせてみたい。そんな耐え難いほど強い欲求が、身体中を痺れるように駆け巡る。
 でもそれは私には許されていない。
 彼女は目を閉じたまま両手を広げて私の背中に回し、私は二本の腕の重みを背中に感じながらそっと彼女の胸に自分の胸をつける。お互いの首筋に顔を埋め、足を絡ませる。そうやって出来る限り肌を触れ合わせる。それだけだ。それ以上の行為を彼女は求めていない。
 そうやって私達はただ呼吸を繰り返した。彼女は普段よりもずっと深く呼吸をしていた。汚れた空気の中に居た人が新鮮な酸素を喜び、慈しんでいるように。
「……ごめんなさい」
 耳元で、彼女が小さな声で囁いた。
「でも、時々、こうすることが必要なの。どうしても」
「うん」
「色んなことが耐えがたくなってしまうの。それでも前はこんなふうじゃなかったのに、あなたに会ってからは駄目みたい」
 彼女はとても深く息を吐いた。肺から空気を全部搾り取ろうとするみたいに。
「こうしているだけで、こんなにも落ち着く。それがとても不思議」
 彼女はそう言って口を閉じる。私達はひとつの生き物になったみたいにぴったりと肌を重ね合わせて、じっくりと体温を交換し合う。
 潜ろう、といつも彼女は言う。確かにそれは正しい呼び方だった。こうしているといつも、暗く生ぬるい海の底に引きずりこまれていくような気がしたから。けれどその海の底で彼女が息を吹き返すのとは裏腹に、私は堪らなく息苦しくなる。触れている肌の滑らかな感覚、耳元にかかる彼女の温かな吐息、頬に触れるまっすぐでひんやりした髪の感触。そういうものの全てに私の身体は反応せずにはいられない。息が震えて頬が熱くなる。腰の辺りがじんわりと熱を持ち、その熱を捉えて二本の足がぞわぞわと動く。つま先をぎゅっと握り締める。でもその衝動には行き場がない。どれだけ深く触れ合ったとしてもこの皮膚一枚を超えられないもどかしさに、脳が絞られるように痛み、涙さえ滲んでくる。
 本当は触れたかった。こうして身を寄せ合っているだけではなくて、彼女の全身に隈なく触れ、舐め尽くし、指を絡めあって、頭が痛くなるほど彼女の唾液を吸い上げて、息苦しさに身もだえして呼吸を乱す彼女の姿が見たかった。
 そうやって、この儀式めいた行為の暗黙の了解を壊してしまいたい。
 私という現実を彼女に認識させたい。
 今ここでぎこちなく呼吸を乱し熱を孕み、浅ましい物思いに頭が焦げつきそうになっている私のことを。
 やがて彼女が静かに呟く。空気に溶け込んでしまいそうな微かな声で。
「……私、きっとあなたに甘えてる」
 その切なげな呟きを私は優しく受け止める。大丈夫、わかってるから、と。
 小さな嘘がこの世界に翳りのような薄い染みを落とすのではないかという背徳感に、わずかに怯えながら。

 区切りをつけるのはいつでも彼女の方だった。
 背中に回していた腕をそっと外し、短く息を吐く。それだけで私は悟る。「浮上」する時が来たのだと。
 彼女はゆっくりと起き上がり、服を一つずつ拾い上げて身に着けていく。いつも通りに黙ったままで。私もそれを何も言わずに見つめている。先に現実に戻っていくのは彼女の方で、私はいつでも見送る側にいる。
 私がベッドに入ったまま服を着終えると、彼女は部屋の電気を点けた。白熱灯のあたたかな光が部屋に満ちる。いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。
 何も身に着けていない時の彼女が持っていた手放しの無防備さは、今では洋服の中にすっかり納められてしまったみたいに気配を消していた。彼女は椅子に座り、テーブルに置かれたままになっていた銀色の鋏と黒い紙片を手に取る。そして鋏を動かし始める。ゆっくりと、けれど淀みなく。その様子はいつもの集中よりは少しくつろいでいて、鋏の感触を純粋に楽しんでいるように見える。
 紙が切り落とされる小さく規則的な音が、先ほどまでの濃密な時間の余韻を押し流していく。彼女はもう自分の世界に戻ってしまったのだ。
 鋏の音。
 時計の秒針の音。
 その隙間にただよう淡い色合いの沈黙。
 彼女の手によって適切に切り取られていく、黒色と空白の世界。
 彼女にとっての完璧な世界。
「セックスはしないの?」
 彼女が軽く目を瞠ってこちらを見たので、私はそこで初めて、自分がその言葉を実際に音にしてしまったのだと知った。口に出すつもりはなかったのだ。
 けれど彼女はさほど狼狽もせずに、真っ直ぐに訊ね返す。
「……それは、どういう意味?」
 もしも彼女がその不躾な質問に怒るなり不快な様子を示すなりすれば、私は適当な言葉で誤魔化してしまったと思う。けれど彼女の笑みさえ浮かべそうなくらいの余裕を前にすると、なぜかはわからないけれどうまく自分を抑えられなくなってしまった。ほとんど衝動的に私は口を開く。
「そのままの意味。誰かとセックスはしない?」
「しないわ。必要ないもの」と彼女はそっけなく答える。
「でも、あなたには時々誰かの体温が必要になる。とても強く」と私は言う。
 何かを言おうとして、彼女は言葉を飲み込んで黙る。
 私は更に言葉を重ねる。
「あなたは父親のことを愛している。これ以上ないくらいに深く。だったら父親とセックスするべきなのだと思う。それが世間的に望ましくない、間違ったことだったとしても」
 彼女はしばらくの間、黙ったまま目の前の空間を見つめていた。私の言葉がかたちをとって目前に並べられているかのように。その目には奥行きが測れない不思議な色が浮かんでいた。海の底みたいに、平板なようにも吸い込まれそうなくらい深いようにも見える。表情が読み取れない。
 やがて感情のこもらない、抑揚のない声で彼女は言った。
「私が、そういう話をすることが苦手なのは知っているのよね?」
 私は小さく頷く。彼女は性的なものの全てに対して異様なくらいに潔癖だった。だからその質問が、私と彼女の間に取り返しのつかない種類の楔(くさび)を打ち込んでしまうことはわかっていた。
「それならいいの」
 そう言って、彼女は握ったままになっていた鋏をテーブルに置いた。
「きっと理解してもらえないと思うけれど、できるだけ率直な言葉で説明するわ。『そういうもの』は、必要ないの。私と父の間には」
 彼女はそっと目を伏せる。
「あの人は、ひどく歪んでいるの。ある時どうしようもなく深く傷ついて、それから捻じ曲がってしまったの。自分でも傷ついたなんてわからないくらい昔に。心の底に埋めようのない亀裂が走っていて、そこから何もかもが零れ落ちていってしまう。そしてそのことにどこまでも無自覚なまま彷徨い続けているような、そんな人なの。私にはそのことがわかる。なぜかはわからないけれど、彼自身よりもずっと深く、正しく知覚できる。そしてそれを誰より有効に埋めることが出来る。この世の他の誰よりも。
 そして彼の欠落を補うことは、私自身の欠落を補うことでもある。それはこれ以上存在し得ないくらいの完璧な噛み合わせで、他のどんなものを取り零していたってどうでもいいと思えるくらいに稀有なことなの。私は自分が自分として生まれてきたことを心の底から喜んでいる」
 声はそこで一層潜められた。
「私達はセックスはしない。必要としていない。唇を重ねることも、手を握ることさえ必要ない。ただお互いが近くに存在しているだけでちゃんとひとつになることができる。むしろ、セックスをすれば何かが壊れてしまう。そこでは私が純潔であるということが重要なの。とても」
 彼女の口元には満足気な笑みが浮かんでいた。それはごく控えめだけれども、強固な確信に満ちている。
 きっとそれを突き崩すことはこの世の誰にも出来ないのだろう、と思った。
 彼女の父親の他には。
「そんなのおかしい。何かが間違ってる。不健全だと思う」
 自分の言葉がなんの効力も持たないことはもうわかっていた。私は膝を抱えてうずくまった。自分の湿った呼気が頬に当たる。
「ずっと今みたいに暮らしていくの? 一人で閉じこもって、父親のためだけに生きていくみたいにして」
「それが私の望みそのものだから」と彼女は言う。
「じゃあ、誰とも結婚しない?」
「そんなの想像もつかない」
「父親が死んでしまったら? たった一人で社会に放り出されたらどうするの?」
「さあ、特に問題はないと思うけど」
「問題はない?」
 私の疑問符に対して彼女はそっと微笑む。幼い子どもの戯言を優しく諌めるような、思わず漏れ出たという感じの笑みだった。
「だって、父が存在しなくなった瞬間に、私も居なくなるもの。それは身体が生命を維持しているかどうかとはまた別の問題。父がいないところでは私の存在も世界も成立し得ない。だから父が死んだ瞬間に、この『私』も崩壊する。それ以降のことはどうでもいいの。問題ないというのは、そういうこと」
 そんな言葉は非現実的で観念的すぎる、それこそ幼い子どもの口にする戯言みたいだ。そう思うけれど、彼女はとても自然にそのことを確信していたので、まるで私の方が間違っているかのように思えてきてしまう。
 彼女は小さく息をついた。
「それでもあなたには理解していて欲しいんだけど、私は何も特別であろうとか異質であろうとしているわけじゃないの。これが私にとっての一番自然なかたちなの。そこに紙が存在するなら、正しいかたちに切り取られるべきだと私は感じる。それにどんな意味があるのかも知らないし、誰かに強制されたわけでもない。ただ自分にとって必要で自然なことだとわかっているだけ。それと同じようなものなの」
 わかるでしょう?と言いたげな親密さのこもった視線を彼女は私に向ける。
「でも血のつながりは何よりも強く、傍に居る理由になってくれる。セックス抜きで。だから私は、彼が父親として生まれてくれて本当に嬉しいの」
 けれど、それでもあなたは誰かと肌を触れ合わせることを必要としている。どうしようもなく強く求めている。
 そう思うけれど、それは言葉にはならない。
 ここではきっとその言葉はうまく意味を成さないから。
 唐突な空白のような沈黙が訪れる。そこで会話に区切りがついたのだというように、彼女は再び鋏を手に取った。折りたたまれた黒い紙片に鋏をあてがおうとして、それからふと顔を上げる。
「……重要なことを確認しておきたいのだけど、あなたはもう、私に会いたくないと思っているからそんなことを訊いたの?」
 彼女の言葉に私は俯いたまま首を振る。
 きっと私の方が、それを失うことに耐えられない。
「よかった」
 彼女は心の底から安心したという様子で微笑む。
「私、誰ともセックスはしないわ。きっと永遠に」
 永遠、という言葉のくっきりとした重さを私は感じ取る。それはとても安易な単語だけれど、彼女が口にするときには実際の重みを備えているのだ。
 ふと、彼女が目を伏せる。小さく首をかしげ、手元を注視する。それだけで音もなく空気の色が変わってしまう。私は一瞬でその様子に魅入られる。思わず息を呑む。その世界は目映いくらいにうつくしく、切ないくらいに完結している。私からずっと遠く離れた場所で。
 彼女が紙を切り取っていく。
 穏やかな金属音が響き、黒い紙片がテーブルに広がっていく。
 その紙片に含まれている自分の一部を思い、私は目を閉じる。
 目蓋の裏に海の底が見えた。
 そこでは、何もかもがとても眩しくきらめいている。





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