マンック
 
ーゼ




 正直に言うとキスもセックスもしなくていいんだったらいくらだって傍にいてあげられるんだけど、
 と、彼女が言った。
 キスも? と僕が訊くと、そう、キスも、と彼女が答える。でも僕達はこの間確かキスをしたよね、と確認すると、ああうん、そうだけど、でもあれは弾みみたいなものだから出来れば忘れて欲しいの、とあっさり言った。
 弾み。
 僕は思わず口に出してしまう。彼女は雨に降られた情けない野良犬を見るような優しい目でこちらを見て、ごめんね、と小さく言う。それだけで何もかもを許せてしまいそうな気がした、彼女が今まで犯してきた罪も、これから犯すはずのまだかたちさえ取らない罪の予兆も、幼稚園の頃大人に隠れて虫を殺していたこととか、秘密の隠れ家で子犬を飼っていたけどうまく世話を出来なくてその内に忘れて死なせてしまったこととか、人が溺れているところを見た時に密かな気持ちよさを感じてしまったこととか、時々首を絞められることを想像して自慰をしてしまうこととか、そういう些細で愚かな罪を、因みにこれは実際に彼女がそうだというのではなく僕のまったくの想像に過ぎないのだけれど、とにかくそういった罪の全てを、許してしまえるような目を彼女はしていた。
 いいんだ、と僕は答えて、でもなぜ君はキスやセックスが嫌いなんだろう? と訊ねてみる。だって怖いじゃない、と彼女は言う。怖い? うんそう怖い。なぜ? なぜって、あんなのはどう考えても異常な行為だもの。どこが異常なんだろう? そろそろ怒るかもしれないと僕は少し愉しみながら質問を重ねるのだけれど、彼女は唇を噛んで真面目に考えている。なぜこの女の子は時々こんなにも純真であどけない一面を見せてくれるのだろう。最早小さな奇跡だ。
 怖いのは多分、私が私でなくなってしまう気がするからなの、と彼女が言う。なんだか全然違う生き物になってしまう感じがして怖いの。だって日常生活では絶対に有り得ないことでしょ? 人から隠れてキスとかセックスとかをして、昼間はたくさんの人の中で普通の顔をしていられるなんて、私には全然想像がつかない。そういう二面性を自分の内側に同居させられないの。難しくない? あなたはどう?
 彼女は恥ずかしそうに目をそらしつつも、どことなく悲しげな様子でそう言った。なんて愚かで馬鹿馬鹿しい悩みなのだろう。いかにも処女臭く感傷的で、心のどこかでは世界が自分を中心に回っていると信じている女の子だけが持つ、ロマンチックでノイローゼな思考回路にしか生み出せないような、そんな下らない悩み。陶酔的過ぎる。
 彼女は無自覚に男の侵入を誘発している。男性器の入り込むべき隙間をちらつかせて、何かが誘い込まれてくるのを待っている。そして仮に獲物が吸い寄せられて来れば素早く心を閉ざしてしまうのだ。
 この世で最も淫らなものは、この世で最も清純らしいかたちをとっている。
 別のものになってしまえばいいじゃないか、と僕は答える。キスやセックスで別のものになってしまうなんて妄想だよ、寧ろそれで見えてくるのが本当の君なんだと思うけどね。僕の言葉に、そんなに簡単に言わないでよ、と彼女が僅かにイラついた口調になる。だって本当に怖いの。妄想だって言われたって、本当に本当に怖いの。そういうのってきっと男の子には分からないのよ。
 気に触ったなら謝る。言い方が悪かったよ。僕が謝罪すると、彼女は別に謝らなくてもいいけど、と少し照れて口をとがらせた。僕は彼女が「別のもの」になってしまうところをこそ見たいなと思うのだけれど、それは口に出さないで胸にしまっておく方がいいのだろう。
 君がそんな風に思うのは、何かきっかけがあったの? 僕は質問の方向を少し変えてみる。すると彼女は思い切り眉をひそめて即答した。ないの、と。
 何もないの。強姦も近親相姦も性的悪戯も、痴漢もストーカーもセクハラも両親のセックスレスも、およそ性的なトラウマを形成するような理由なんてどこにも何一つ見つからないの。せめてそういうわかりやすい、というといけないのかもしれないけど、そういう理由があれば、色んなことがもっと解決しやすいかたちに見えるのかもしれないけど、でも全然そういうものを見つけられないの。それこそが私の問題なの。
 彼女は本当に真面目に(少なくとも真面目なつもりで)そう言っているみたいだった。あまり鼻先で笑ったりからかうのはやめよう、と僕は思う。なんといっても僕は彼女に好意を抱いている男性なのだし、男から見て女の子の思考回路がどんなにとりとめなく思えても、それで女の子が真剣じゃないとは限らないのだから。
 つまり君がそう思うようになったきっかけは何もない。この世界においては。
 そう。この現世においてはね、と彼女が溜め息をつく。
 現世においては、と僕は彼女の言葉を繰り返す。
 前世とかには何らかの原因があるのかもしれないし、と彼女は肩をすくめる。
 なるほど、と僕は答えておく。
 まあ言ってみれば、彼女は僕とセックスをしたくないのだ。
 僕と、というよりは誰とも、キスさえしたくない。でも誘惑はしていたい。全てを委ねることなしに、権利や可能性だけを握っていたい。そういうことだ。
 少し突っ込んだ話をして気を許したのか、彼女は僕の肩に頭をもたせかけてくる。子どもが甘える時のように何気なく、それが当然の権利なのだという様子で。今彼女の肩をつかんで少しでもキスの気配を漂わせれば、彼女は小さく首を振って、駄目、と呟くのだろう。そんな彼女の仕草を見てみたい気もしたけれどとりあえず我慢しておくことにする。
 こういうのって狡くない? と彼女が呟く。
 何が?と僕は尋ね返す。
 だから、何もさせないこと。一緒に居るくせに、期待を持たせているくせに、あなたとはセックスしない、って言っちゃうこと。男の人ってそういうの、損してるとか、割に合わないとか、そんな風に思うんじゃない?
 どうかな。いつかは辛くなるかもしれないけど、今は別にそんな風に思ってないよ。
 本当に?
 嘘はついてないよ。僕はそう答える。
 彼女はそれきり黙って、僕の肩に鼻先をこすりつける。
 明日にはきっと彼女は手を握ってくるだろうし、明後日には膝にもたれかかるかもしれない。その次の日には膝の上に座り僕を見上げるかもしれないし、更に翌日には頬をくっつけてくるかもしれない。やがてベッドの中で抱きしめてもらうことを望むようになるかもしれない。
 それでも彼女はきっと、駄目、と呟き続けるのだ。
 それが彼女の本当にしたいことなのだと僕は知っている。散々と誘惑をし続けて、なおかつ禁欲的に振舞うこと。可能性だけを愉しんで、何も実現させないこと。
 彼女は、生来、壊れている。何かを求めることと、実際に手に入れるための回路とが、決定的に噛み合わないのだ。
 僕とまったく同じように。




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