私は左脳派処女である、という、自負があったのです。


 昔から、世にはびこる恋愛モノにはことごとく虫唾が走った。都合の悪いものはつぶさに取り除かれ、表面はいかにもさりげなく美しく取り繕われて、口当たり良く、なんの後ろ暗さもない、甘い痛み以外の痛覚を鈍らせるような、忌々しく愚かなつくりごと。そんなものを容易く受け入れ浮かれはしゃぐ世間の連中を、そしてそれらを細心の注意を払って仕立て上げているブレーンの存在を、蔑み憎んだ。

 そして、映画や小説を見て泣いてしまうなんて、最高に恥ずかしいことなのだった。別に他人が泣くのまでは気にならない、ただ、誰かの前では勿論、一人で見ているときでも思わず泣いてしまうと、自分がひどく恥ずかしくなった。泣いている自分をうつくしく思うという、最も唾棄すべきナルシズムにどうしたって揺らがずには居られない自分を、また「そうやって自覚しているだけでも私は平気で泣く人々とは違うのだ」と優越意識を抱いてしまう自分を、自覚せずには居られないからだ。
 そういう過剰な自意識に囚われることなく、素直に泣いて、「ああ、泣いちゃったな」と思える人々は、まったく脅威的な存在である。私にとって。多分、住んでる次元が違う。

 だから私が恋愛小説を読んで、その上泣くなんてことは、あってはならない
 ……はずだった。
 それはまさしく、「左脳派」の女子であるという自負を ―― もちろんそれは「素直な女子」という生き物に対するどろどろのコンプレックスに己の汗や唾液を混ぜて練り上げて作り出した、もはや怨念に近い捻じ曲がった自負である ―― どうにかこの世界で生き延びていくために、すがるような気持ちで作り上げてきたアイデンティティを、ボロボロに打ち壊し瓦解させてしまうほどのインパクトを持っている。
 
 それなのに私は、かの「きらきらひかる」を読んでしまったのだ。とある輩の差し金で。(単なる八つ当たり。別に読めと言われたわけですらない)
 そしてあろうことにか、最後の10ページは涙をこらえるのがやっとという状態になってしまったのだった。
 具体的に言えば新潮文庫版の194〜205ページ。あとがき含む。

『普段からじゅうぶん気をつけてはいるのですが、それでもふいに、人を好きになってしまうことがあります。』

 あとがきのその文頭を思い出すだけで、頭がくらくらして、眩しくて、息が詰まる。世界が一瞬遠くなって音を失くす。もちろん然るべき時間を経れば、ちゃんと全ては戻ってくるのだけど。
 そう、私たちはいつだって、じゅうぶん気をつけている。誰かを好きになってしまわないように、慎重に暮らしている。息を潜めて。正しく誰かと触れ合えるように、簡単に転んでしまうような恋の落ち方をしないように。
 私など、存外簡単に、恋に落ちる。そうなのだ。わかっている。左脳派とか自称してガチガチに理性と理論で己を固めている女の方が、本質的にはずっとずっと脆い。少し侵入されればなし崩し的に自分をほろほろと明け渡してしまう。どうしようもなく弱いからこそ殻を分厚くしているだけだ。
 そしてそういう捻くれた性質は、年経るにつれ複雑にねじけて、扱いにくく、タチが悪くなっていく……と自覚してはいても、それは自分ではどうしようもない。生まれついて捻くれているのだとしか思えない。
 羊のような従順な女の子になろうと頑張った時期もあったけど、無理だった。具体的に言えば色んな病気になった。文字通り、身体に合わなかったんだと思う。魂を捻じ曲げると身体の方が壊れるらしい。私も変なところで一本気で実直なので、身体がボロボロになってもうちょっとで再起不能になるところまで頑張ってみたんだけど、どうしても駄目だった。
 消せなかった。
 自分の中の毒の気配を。
 過去最もセックスに肉薄した状況で、そのことを悟った。ああ私には無理なんだ、と。「彼ら」の望むような大人しくかわいらしい女の子で居てあげることはできない。そのことを一瞬にして、絶望的なくらいの深度で、理解させられたのだった。


 「きらきらひかる」を読み終えたあとは、とにかく、悔しかった。
 私は知りたくなかったのだ。自分が簡単に恋に落ちる事実なんて。わかっていたけれど、改めて見せつけられたくなかった。恋愛小説なんてカテゴリのものは、ずっとずっと馬鹿にしていたかった。鼻先で笑い飛ばしておきたかった。
 それでも読み終える間際に涙を堪えていたという事実を、認めなければ、嘘になる。感情で認識を捻じ曲げて見たいものしか見ないなんて、そんな「女らしい」性質を許容できるわけがない。
 とにかく理由は分からないけれど、私はその本を読んで泣きたくなった。とても。
 それは事実なのだ。


 恋する女の子だなんて、そんな砂糖菓子のように罪のない、ひたすらに甘く、ナルシストで、無責任な生き物になることなんて、自分には到底許されるはずのないこと。
 十代の私はいつだって強烈にそう感じていた。自己嫌悪の塊で、汚い自分がいつだっておぞましくて堪らなくて、少しでも「善きもの」に近づきたいと、痛切に願っていた。
 十六の頃は、一刻も早く皺くちゃのババアになりたかった。そうしたらあらゆる欲望から解放されるのだと思ったからだ。誰かを憎んだり、余計なものを欲しがったりしなくて済むのだと、無垢にも信じていたからだ。だから道端で出会う、捻くれて傲慢で、自分の事しか考えない老人達の存在は私を深く傷つけたし、歳を取ればいいわけでもないらしい、と教えられもした。
 なのでその次は、どうやったら修道女になれるのかと真剣に考えた。山奥の誰も来ないようなところで、何かに祈り、正しい生活を送り、純潔を生涯保ったまま、必要なもの以外を欲さず、最低限のものだけを食べ、空気さえ人よりもずっと少なくしか消費せず、枯れるように死んでいけるのではないかと思った。
 問題は、私がキリスト教に対して、ひとかけらも興味を抱けないことだった。一神教、人格神というものの胡散臭さに、どうしても心酔することは出来なかった。罪の感覚も、恥の感覚も、私の内側に強く濃く存在していたし、許されたいという気持ちはいつもどこかにあった、それでもイエス・キリストに許されたいとはどうしても思えなかったのだ。
 山中に一人で暮らす修行僧にも憧れた。けれど修道女も修行僧も、高校生女子にとってはもっとも非現実的な進路なのだった。

 そんなことを考えている同級生など無論存在せず、そしてそんなことを考えている女が恋愛小説などを読むはずもなく、ひたすらの孤独の中、活字を読むのが好きだったから本はたくさん読んでいたけれど、どれもこれも古臭くカビの生えたような本ばかりだった。その内に偶然に村上春樹作品と出会い夢中で読み漁ることになるのだけれど。ああ、それから、漫画も沢山読んでおりました。普通に馬鹿で能天気なところもあったのです、勿論。

 その頃に書いた文章が残っていて、読み返すと、笑ってしまう。余りにも肩肘張っていて息苦しくて、必死すぎるから。
 語尾はことごとく「〜だ・である」「〜すべきだ」「〜に違いない」といった調子で、やたらと漢字が多く、断定口調で、まるでどこぞのおっさんの書くような文章なのだ。
「私はこの社会では狂人だという自覚がある。そしてそれこそが、よすがの理性の顕われなのだ」
 なんて、「……何かあったの?」って言いたくなってしまう。
 そしてそんな異様に堅い内面を抱えながら、外側は、とにかく従順に、誰の気にも障らないように、気配を消しきって、無害なものになりきろうとしていたのだ。
 当時の自分を思い返すと、その相手の見えない戦いっぷりの見事さにやっぱり苦笑してしまう。狂いそうな衝動を必死で押し込めていたわたし。もっと素直に楽しいことやきらきらしたものを受け取ればよかったのに、と。けれど、きっともう一度戻っても、私は同じことを繰り返すのだろうなと思う。それはそれで必要な季節だったのだろう。でも二度と戻りたくない。あんなの、一回で充分だ。本当に。


 あとがきの結び。
『素直に言えば、恋をしたり信じあったりするのは無謀なことだと思います。どう考えたって蛮勇です。
 それでもそれをやってしまう、たくさんの向こう見ずな人々に、この本を読んでいただけたらうれしいです。』

 そう、この本に出てくる人物はみな、蛮勇だ。
 みんながみんな、自分の中に息づく度外れな好意を、そのままのかたちで存在させようとしている。不器用に、場違いに、常識外れに。
 そもそも、自分の感情なんてものを、もっともらしい体裁に整えようとしない人々は、社会において異端なのだ。「大体こんな感じのかたちにしておけば大丈夫。」そういう在り方をみんながなんとなく共有していて、わかりやすいストーリーとシステムが供給されている。告白する・つきあう・デートを重ね段階を踏んでキスをする・セックスする・結婚する・子どもを産み家庭を作る……もちろん、別にそれが悪いわけじゃない。ごく自然なことなのかもしれない。あるいは誰かにとっては。
 でもそれが自然じゃな人だって、確かにこの世には存在する。
 その時に自分の欲求をどう処理するかは、その人次第だ。
 そして睦月にしろ、笑子にしろ、そんな素直な欲求を、誰かを求めるやり方を、出来うる限りそのままのかたちで保とうとしている。決まりきった形におさめ安住させることなく、馬鹿みたいにまっすぐであろうとして、悪戦苦闘している。
 そうやって信じあおうとすることは、すごくすごく難しい。
 けれど、それでも。


 十六、七の私にこの本を渡したとしても、きっと歯牙にもかけなかっただろう。あるいは一年前でも、こんな感想を抱くことはなかったと思う。たぶん綺麗過ぎてアレルギー反応を起こしていた。
 人は変わる。確実に。
 そうして代謝していくことが、生きているという現実らしい。
 ハードコアな現実ばかりをことさら強調して知覚していた季節を越えて、やわらかなものを少しずつ、咀嚼し始めた私がいる。やさしさと曖昧さに満ちた右脳的世界。慣れない世界。
 堅牢に私を取り囲んでいると信じていた柵が、世界の限界が、音もなく砂の塊のように崩れていく。ほろほろと、やわらかく。今まで何度これを繰り返したのだろう。そしてこれから何度、繰り返すのだろう。新しく何かが見えるたびに、それが果てだと思うのに。
 怖い? そう、少し怖い。変わってしまうことはいつだって怖い。なにしろ私は人一倍臆病だから。一人の世界にこもっていた方が、なまあたたかくてほっとする。
 それでも世界が打ち崩されていく、その背筋がすうっと冷たくなる感じが、生命感の高鳴りが、時に恐れを凌駕する。
 鼓動がはっきり強くなる。
 息を止めて目を閉じる。
 遠い何処かで、何かが始まっている。
 私にはそれがわかる。
 いつでもまず予感がやってくる。
 とても静かに、ひそやかに、それでもくっきりと質量のある影を備えて。
 現実が追いつくのは、それから随分後だったりもするのだけれど。




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