サディスティック・メロウ





 ね、ほら、人間なら誰だってあるじゃない。特にもう十九、二十歳になっちゃうと、そういうのってどうしようもないでしょ。高校生くらいなら色々ほかの事で誤魔化せたりするんだけど。一人でいるのが耐え切れないくらい寂しくなって、日常生活で人と会話したり笑いあったりするだけでは埋め合わせきれなくなって、誰かにじかに触れたり、触れられたくなってしまう。切ないくらい強烈な衝動に、身悶えするしかないあの感じ。
 すぐ近くにある、別の人間の体温と息遣い。自分とはまるで違う組成をした個体。大きく太い骨とか、それを取巻く筋肉のしっかりした感じ、自分のものとは明らかに違う「オス臭い」体臭、とにかく、何もかもが自分とは根本的にかけ離れている、その異質さに、ふと頼ってみたくなる。広い肩幅とか大きな背中とか、私をすっぽり包んでしまうような腕とか胸とか。そういう自分には備わってない強いものに、素直に身を預けられたらいいんだろうな、といつも思う。それを「恋愛」だと信じられればいいのにって、泣きたくなるくらいに思う。




「お前って、変なところに隙があるんだよ。だからつけこまれるの」
 先輩はいつも遠慮のない口調でズケズケ喋る。
 私はそれを聴くたび、本当はこんな喋り方をする男の人は嫌いなのに、と思う。
「それで、今回は?」
 缶ビールを煽りながら先輩が言った。先輩の家を訪ねる時、私は必ず缶ビールを持っていく。それはなんというか……「代価」のようなものだ。私自身はお酒を飲まない。いつもと違う不安定な感じになってしまうのが好きじゃないから。そのことを、先輩は「取り澄ましている」という。そんなつもりないのに。
「……同じサークルの、同級生」
「また、家に来たいって言われたのをほいほい上げたの?」
「そういうわけじゃ……打ち合わせたいことがあるって言うし、真面目な子だったから、」
「いつものパターンか。大丈夫だと思って二人っきりになって、何かされそうになって、『ごめんなさい』とかって泣いたんだろ、どうせ」
 先輩はつまみのピーナッツを口に無造作に放り込む。もうすっかり夕方だというのに私が来るまで寝ていたらしく、寝起きのぼんやりとした顔つきに、口元にはうっすらひげが生えている。部屋だってひどく散らかっていて、床に散らばっていたものを無理矢理端に寄せて作ったスペースに私たちは座っている。
 そのだらしなさも、かなりがっしりした体型も、がさつな口調や態度も、私が普段好ましいと思う男の子のタイプからは遠くかけ離れている。
 でも私は定期的にここに来る。
 それも自分から、望んで。
「隙があるとか、いつものパターンとか言われても、別に、わざとやってるわけじゃないです」
 私はむっとした様子を隠さずに言い返す。
「なんで男の子ってみんなあんなに単純なんですか? 嫌になる」
「……わっがまま」
 先輩はひどくおかしそうに目元だけでにやりと笑って、ビールを一気に飲み干してから、床に缶を置いた。
「そうなるべき状況を自分から用意しておいて、相手が罠にかかったら、一気に冷めちゃうんだろ? 驚くべき我儘さだよな」
「そんなこと、」
「はいはい。わかったから」
 私の怒気をいなすように笑ってから、先輩はなんの前触れもなく私に近寄り、手首をとった。乱暴な調子ではなく、ごく自然な優しさをこめて。
 その瞬間、ずっと身体の内側でじりじりともがいていた密かな衝動が、思い切り解放されそうになって、その温度差に背筋が冷たくなるくらいぞくぞくする。
「いや、」
 その落差に怯えて思わず手を引っ込めようとしても、先輩の手は離れない。
 この人相手に、私が嫌がることはない。寧ろ、望んでいる。いつだって「欲しくなったら」、私はこの部屋にやって来る。缶ビール一本をその代価として。
 それをわかっているから、先輩は何も言わない。見透かされているのだ。
「……お酒臭いから、やだ」
 悔し紛れに顔をそらしてそう言うと、先輩が呆れた。
「これから押し倒します、って時に歯を磨くヤツなんかいないよ」
 そしてそう言ったそのままの唇で、私の唇を強引に塞いだ。


 ああそうか、私は、押し倒されたいんだ。ただ単純に。
 脳が痺れるような息苦しさの中で、いつもそう実感する。
 どれだけ私の方が欲しがっているとしても、押し倒されるというかたちじゃないと、嫌なのだ。そんな私はとても不潔だと思う。そしてその不潔さを、先輩はちゃんと見抜いている。見抜かれていることも、それを許されていることも、わかる。
 口内に侵入してくる舌をぎこちなく受け入れている内に、思考が溶けていく。意識は生温くやわらかな泥の中に沈んでいき、瞼の裏が眩しくかすむ。身体を支えていた腕ががくんと折れて床に肘を着くと、大きな手が背中を支えて私をそっと床に倒した。
「……床、汚いんですけど」
「お前は本当にやかましいな」
 先輩は苦笑して、それから私の首筋に唇で触れた。
 その感覚がやってくると、私はもう喋れなくなる。身を捩って、声を殺して、全力で抵抗する。どんな反応も示すまいとして。でもそれは無駄な抵抗になる。もうわかっている。その意外なくらい柔らかい唇が、首筋を降りて鎖骨を辿っていくだけで、身体が震えて吐息が漏れてしまう。
 ごく自然な手つきで、ブラウスとその下のキャミソールがめくりあげられていく。じれったい気持ちでそれを見つめながら、背中のホックが外される解放感を、自分がたまらなく無防備にされてしまう瞬間を、待ち遠しいような、屈辱的なような、複雑な気持ちで受け入れる。
 自分に備わった一対の乳房がさらされるとき、恥ずかしさに紛れてささやかな誇らしさを覚えてしまうのを、誤魔化しきれない。それが膨らみ始めた頃、私はとにかく恥ずかしかった。他人の視線から隠すべきものを自分が獲得したことを、後ろめたく思った。でもどこまで否定したって、その意思とは関係なく、むしろ反するかのごとく、それは丸く豊かに育っていった。理性ではどうしたって飼い殺せない本能が自分の内側に宿っていることを、私は悟った。
 先輩はその先端をごく優しく転がすように、唇で触れる。私は必死で声を抑えようと指を噛む。でももうそれはかたちだけの抵抗に過ぎなくて、短く微かな叫び声は、次第に鼻にかかるように甘く伸びた声に変化していく。
 触れられていることの、訳のわからない充足感。
 何もかもがあまりに過剰すぎて、頭が変になりそうだった。
 どうしてこの人だけが、私の本能を解放できるのだろう。他の誰にもたれかかるのも、触れられるのも、許せないのに。
「ねえ、私、頭がおかしいと思う?」
 荒い呼吸の合間に訊ねると、先輩は少し表情を固くする。
「どうしたの」
「だって、変なんだもん。きっと」
 やたらと甘えた自分の口調に、ああ不潔だ、と思う。でもそれはもう仕方がない。
「いつもね、期待してるの。男の子に。この人なら大丈夫かもしれない、そんな簡単に私のことを好きにならないかもしれないって、そう思って、だから部屋に来たりするのを止められない」
「うん」
 先輩は相槌を打ちながら、私の肌を撫で続ける。唇で触れて、時々吸い付く。舌を這わせて、軽く噛む。その行為が途方もない優しさに満ちていることを、私はちゃんとわかっている。
「現実感が、繋がっているって感じが、いつもすごく薄い。だから、男の子と限りなく近づいた時だけ、生きてるって感じがする。本当に一瞬だけ手応えがある。でもそれは、ほとんど幻みたいなものなの。すぐに消えてしまう。
 ……私、不感症なのかな。人よりずっと鈍いのかも」
 そう言うと、先輩は私の髪をゆっくりと撫でた。
「むしろ逆だな。過敏すぎるんだよ。だからある程度鈍くしておかないと、深く繋がりすぎてしまいそうで、怖いんだろ」
 私は思わず瞬きをして先輩の顔を眺める。
「何」
「どうして、そんなことがわかるの?」
「わかるよ。お前って、高校の時から何も変わってない。見た目は多少変わったけど」
 高校。反射的に思い出す。この人は図書室でいつも適当な本を読んでいて、私は勉強ばかりしていて。ろくに勉強なんかしないくせに成績は先輩の方がずっと優秀だった。学内で見かけるたびたくさんの友達に囲まれているのに、どうして放課後は一人でいるのだろうと不思議に思っていたら、ある日声をかけられた。あんたみたいな人って普段どんな本を読むの? って。馬鹿にされたと思って腹が立った。でも馬鹿にされたわけじゃなかったらしい。その日からちょっとずつ言葉を交わすようになった。なのに、それから三月経って、先輩はあっさり卒業してしまった。
 同じ大学に合格した時、先輩のことを意識しなかったかといえば嘘になる。そして私たちはちゃんと再会した。まるで決まりきった筋書きを辿るみたいに。
 私たちの間に、何か共通するものがあるのだろうか?
 ……わからない。
 こんな奇妙な関係になった理由だって、全然わからないのに。
「高校の私って、どんな風だった?」
 私が訊ねると、先輩は少し考えてから答える。
「なんていうか……すごく真面目そうなのに、どこかで色んなものを馬鹿にしてて、そのくせ自信がなくて、臆病で、なんとなくぎらぎらしてて、変なヤツだと思ってたよ」
「ぎらぎら、してた?」
 そんな風に言われるなんて意外だった。私は典型的な優等生タイプだったから。少なくとも、周囲にはそう見えていると思ってた。
「してたよ。私はあんた達とは違うって、どっかですごい偉そうだった。分かりにくかったし、気づいてないヤツの方が多かったと思うけど」
「そんなの知らない」
「とにかく、そうなんだよ。今だってちょっと変だろ。彼氏でも作れよ」
 そう言われたところで、私は傷つかない。
 私たちは彼氏彼女じゃない。
 かといって、セックスフレンドでもない。セックスは、しない。触れるだけだ。それも、先輩が私に触れて、私は黙ってされるがままになっている。「押し倒されている」だけ。それが、私にとってちょうどいい「欲しいかたち」で、先輩はそれをちゃんと見抜いて、満たしてくれるのだった。
「だって私、『彼氏』なんか欲しくない。セックスもしたくない。なんだか恋愛って、契約みたいなんだもの」
「契約?」
「だって、つきあいましょうって言葉があって、それから浮気はしちゃ駄目です、相手を最優先させましょう、週に何回デートしましょう、男の子は女の子に優しくしましょう、そうしたらその代価にセックスさせてあげます、……なんかそんなのって、気持ち悪くない?」
 そのあざとさが、嫌い。そう言いながら、私は気がつくと胸を突き出すようにのけぞって、相手がもっと触れることを、密かに助長している。私は他の何よりあざとい生き物で、でもそのことを相手はもうとっくに知り尽くしているのだ。
 きっと、高校の図書室で出会ったあの時から、既に。
「そりゃ気持ち悪いな」
 先輩が笑う。小さな子どもを相手にしている時みたいに。
「そんなの恋愛とは呼ばないよ」
「でも、みんなそう呼んでる」
「みんな勘違いしてるだけだ。阿呆なんだ」
「そうなの?」
「そうだ」
 私はおかしくなって、くすくす笑う。でもその最中に、先輩の指が、太ももをなぞっていく。それで会話をする余力は一気に奪われる。私はその指の感触だけに心を奪われ、敏感に反応して、切ない声を上げる。私を黙らせるためにどうすればいいのか、相手はちゃんと知っているのだ。
 身体のあちこちが、理性の統制を容易くすり抜けて、その本能を主張し始める。しどけなく首の力は抜けて、指は相手の肩先を這って爪あとをつけてみたりする。足は絶えずお互いに摺りあわされて、そこに侵入してくる手のひらをやわらかく捕らえる。
 私は効率的な罠を仕掛ける一個の生き物になる。圧倒されながら、圧倒する。そして先輩だって、その罠に巻き込まれ、触れ、反応を引き出すことを、こよなく楽しんでいる。私にはそれが分かる。私たちはその愉しみを、共有している。そして普段は単なる精神の容れ物としか思わないこの身体が、誰かの興味を惹きつけ、愉しませるものになり得ることに、ひどく満足する。
 私の不潔さを、あざとさを、見抜いて、見下し、責めて、許して欲しい。そして同時にそれを認め、評価して欲しい。もっとも卑しく醜いものから、もっとも無垢で汚れなきものを見出して、それをやさしく扱われたいと、そう願ってしまう。
 私はきっと、普通よりもずっとずっと欲しがりすぎてしまうのだろう。
 だから最後の一線は、越えない。越えられない。
 だってそうなったら、私は全部飲み込んでしまうまで、止まらないと思うから。
「お前ってさ、」
 ぼんやりとした空気の膜の向こう側から、先輩の声が聴こえる。
「全身で自分に触るなって威嚇してるのに、どこかで、本当はものすごく触られたがってる。昔っから」
 そうかもしれない。でも、仕方がない。「恋愛」が出来なくたって、熱は身体をあたためて、抑えきれずに彷徨い出て、繋がる先を求めてしまうのだ。
 でも、これは錯覚だ。私たちは繋がりあっているわけじゃない。ただ一瞬、もたれかかりあっているだけ。必要なものを必要な分だけ手に入れるために。そのことの不確実さを、不健全さを、それでもお互いに自覚している。
 もちろん、歪んでいる。
 その歪みを歪みのまま受け入れられるから、私にはきっと、この人が必要なんだと思う。こんな関係性は長くは続かないだろう。わかってる。
 でも今は、この名もない衝動にただ翻弄されていたいのだ。


 やがて相手の肩にすがりついて、私は泣き声に似た小さな叫び声をあげた。強いひらめきが何度も頭を真っ白にして、呼吸が止まる。意識がねじれていくような感覚が続いた後、それがほっと緩んでいく。疲労しきった深い呼吸と、脱力した身体の感覚が蘇ってくる。
 そして気がつくと、私は泣いていた。涙はこらえきれずに、ぽろぽろとこぼれて、頬を伝い、耳や髪を濡らす。最初は無意識だったのに、気づいてしまうと止まらなくなった。どこから出てくるのか不思議なくらいに。
 自分が泣いている理由が、分かるような気もしたし、至極不可解な気もした。
「泣くなよ、」
 先輩が少し困ったような顔をしている。それはずるいだろ、とその表情が言っている。同時に、許してもいるのだけれど。
 ごめんね、と言おうとした。でも涙のせいで声は出なかった。私は気が済むまで泣き続けた。声を出さずに、ほろほろと。





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