海亀の住む僕らの世界






 多賀麻依子は少し変わった女だ。
 まず、ほとんど物を食べない。少なくとも僕と食事をするときには、彼女は常に野菜サラダと、ほんの少しの魚しか口にしなかった。「あんまり食欲がないの」と言っていたが、彼女が体型維持のために節制をしていたのは明らかで、その痩身願望はほとんど強迫観念じみていた。
 もう少し余分な肉がついていた方がむしろ美的な観点からも望ましいと思うくらい、多賀麻依子の身体は細すぎた。いつもやたらと短いタイトスカートから棒切れのような足を二本覗かせていて、肉の削げた太ももの下で、膝の関節の大きさが異様に目立っていた。身体の細さに対して頭が随分大きく見えてしまうせいで、今にもバランスを崩して倒れてしまうのではないかとこちらが不安になった。
 どうしてそんなに痩せたがるの、少しくらいふっくらしてたって魅力的なのに。何度かそう言ってはみたけれど、彼女の答えは決まっていて、
「だって、その方がいいんだもの」
 とだけ言うのだった。それ以上に理由はない、あるいは説明できないらしい。
 初めて彼女と寝たときに、そのほとんど膨らみのない胸を見て、何かしらの評価を考えるよりも、むしろひどく納得してしまった。ああそうだ、当然なのだ。これだけ贅肉を許さずにいる女の身体に、都合よく胸にだけ肉がつくということは有り得ないことだ。多賀麻依子が決めた「肉の気配のない身体でいる」という決心の分だけ、他の何かがしっかりと差し引かれている。それが現実の調整作用なのだと思った。取引の代償として、彼女は女としての魅力を捧げだしたのだ。
 あるいは、胸でさえ贅肉に過ぎない、と多賀麻依子は考えていたのかもしれない。でも胸の大きさについてはあまり触れない方がいい話題だと思うから、僕から訊ねたことはない。とにかくその胸の大きさ(あるいは小ささ)まで含めての多賀麻依子なのだと僕は思うことにした。愛撫の際には、その少し濃い色の小さな乳首に唇で触れた。少なくとも僕の目には、多賀麻依子はそれを喜んでいるみたいに見えた。

 多賀麻依子は、セックスに興味を持たない女だった。というよりも、それがどんなことなのかをうまく理解できないみたいだった。仲良くなって三ヶ月目、僕たちは多賀麻依子の部屋で初めてセックスをするに至ったのだけれど(お互いに初めての経験ではなかった)、すべてが終わった後に彼女は言った。
「ねぇ、私、大丈夫だった?」
 何が?と問い返した僕を少し不安げな目で見上げて、
「私、普通だった? 変な声だったり、おかしな態度とか、気にならなかった?」
 と聞いた。変なところなんか何もなかったし、そんなの気にしなくていいよ、と僕は言ったのだけれど、それに頷きはしても納得しきってはいない様子だった。そして身体を重ねるたびに、毎回同じことを訊くのだった。
 もしかして、セックスが嫌いなの? ある日、思い切ってそう訊いてみた。彼女は首をかしげて放心したような顔つきで、
「嫌いなのかもしれない」
 と呟いて、それからすぐに、
「でもあなたに触られたりするのは嫌いじゃないの」
 と付け加えた。嘘をついている様子も、気を遣っている様子もなかった。
「だから、これからも一緒にしましょう」
 抑揚のない声で多賀麻依子は言った。そんな調子で一緒にしましょう、と言われるとそれはなんだか何の後ろめたいこともない、国民の義務としてのセックスを思わせた。明るい家庭のために、そして国家の繁栄のために、人類の発展と拡大のために。これからも一緒にセックスをしましょう。
 そして週に一度僕たちはセックスをして、週に一度多賀麻依子は尋ねた。ねぇ、私、大丈夫だった?

 多賀麻依子の変わっているところはまだまだたくさんある。

 彼女はなぜだかやたらに海亀が好きだ。
「産卵シーンをね、テレビで見たの。小学生の時に」
 ある日彼女はどこか優しげな顔つきでそう語った。
「身体を引きずって浜辺に上がって、穴を掘って。……そうやって、何時間もかけて、暗い中、一個ずつ卵を産むの。本当に感動した」
 そう言って多賀麻依子はまばたきをして、指先を見つめる。
「目を閉じて。想像してみて」
 そう言われて、僕は素直に目を閉じる。
「満月の夜、静かな砂浜。小さな海の生き物たちは、あたたかい砂の中で息を潜めて眠っている。波の音以外はほとんど何も聞こえない。海亀は海の底からひっそりとやってきて、静かに砂浜を進んでいく。誰かその場所を乱す存在はいないか、とても注意深く辺りをうかがいながら」
 僕はその光景をできるだけはっきりと思い浮かべようと努力する。
「海亀はゆっくりと時間をかけて穴を掘り、たくさんの卵を産む。そして産みながら、涙を流すの。満月に照らされて、とても静かに。
 それは過剰な塩分を体外に排出するための仕組みに過ぎないと言われているけど、でも、そんなのって誰にもわからないと思わない?とにかく、海亀は泣いているの。たった一人で、命を生み出しながら」
 彼女はそう言って、目を閉じたままの僕の肩にそっと頭を乗せた。少し遠慮がちに。
「そんな風に、静かで真摯なものがこの世のどこかに存在していると思うと、私はすごく励まされるの。息苦しさがちょっとだけ和らぐ気がする。そういうのって、おかしいと思う?」
 おかしくはないと思う、と僕は答える。
 彼女の言いたいことを僕が正しく理解できているのか、自信はない。でもその話を聞いてから、僕たちは時々海亀を見に水族館へ行った。水族館ではさすがに産卵を見ることはできないけれど、それでも彼女はとても喜んだ。一匹一匹の甲羅の大きさやかたちの違いを指摘して、それぞれに名前をつけた。多賀麻依子が嬉しそうにしていれば、僕もなんとなく嬉しくなった。

 多賀麻依子は美人とは言えないのかもしれなかった。
 それでも、個性的な顔立ちをしていた。全然悪くない(と僕は思う)。少しつりあがった目つきと、通った鼻筋が知的な印象を与えていた。薄い唇はいつもぎゅっと閉じられていて、一度決めたことは曲げない頑固な性格を示唆していた。でも全体としては、なぜだか彼女は随分無防備な雰囲気を漂わせていた。細すぎる身体つきのせいかもしれない。
 服装にはそれなりに気を遣っていたが、多賀麻依子が洋服を着ていると、そこには常にちぐはぐな感じがつきまとった。洋服と多賀麻依子は、決定的に噛み合わない。流行の服を身につけていても、なぜだかいつもそれは少しだけ時代遅れのものに見えた。明るく染めた茶髪とゆるいパーマの髪型もなんとなく彼女から浮いていた。
 でもそういう「ちぐはぐさ」はよくよく彼女を観察してみて初めて「あれ?」と思い至ることで、一見しただけでは、彼女はどこにでもいる普通の(ただし痩せすぎの)大学生の女の子に見えた。
 僕はそのちぐはぐな多賀麻依子のことが、結構好きだった。そこには人を安心させるある種の隙のようなものがあった。見下して優越感を持てる対象だとかそういうことではなく、多賀麻依子が多賀麻依子であることで、少なくとも僕はほっとすることが出来た。音だの映像だの情報だのがみっちり詰まって過剰さでパンクしそうな世界に、彼女は小さな隙間を作り出してくれる感じがした。
 彼女の存在をそんな風に感じているのは僕だけなのかもしれない。でもとにかく、そこには何か心温まるものがあるのだ。

 時々、多賀麻依子はひどく泣いた。これといった理由もなく。二人きりの時、僕の胸に頬をつけて静かに泣き続ける。たぶん二ヶ月に一度くらい。

「慰めて欲しいとか、そういうわけではないの」
 しばらく泣いた後で少し落ち着いてきた頃、多賀麻依子は言う。
「でも無視されるのも嫌なの。たぶん、構って欲しいだけなのよ。こういうのって、すごく我が侭で迷惑よね」
 そんなことはないよ、と僕は言う。そしてその少し毛先の痛んだ髪をゆっくりと撫でる。
「私って最低。こんな風に泣いていいような女じゃないのに」
 そんな言い方をしないで欲しい、と僕は言う。自分のことを蔑むような物言いを聞いていると胸が痛くなってしまうから。でもそう言うと、彼女はさらにひどく泣いてしまうのだった。
 そして付き合い始めて半年経つ頃に、彼女はそっと打ち明けてくれる。
「どうしてこんな風に泣いてしまうのか、私にもうまく説明は出来ないんだけど」そう言って目尻を指先で拭う。
「多分、母親のことと関係があるの。今はちゃんと言葉には出来ない。そのうちに言えるようになるかもしれないけど」
 僕は多賀麻依子の母親について何も知らない。
 そっか。じゃあ、わかったら教えてよ。
 僕の言葉に彼女は小さく頷いて、赤い目のまま少しだけ微笑む。

 その頃から、彼女はセックスの後に質問をしなくなった。

 多賀麻依子は少し変わった女だ。
 でも或いは僕だって、彼女から見れば少し変わった男なのかもしれない、と思う。世の中の恋人同士はみんなそうやって、お互いにしか分からない「少し変わったところ」をひっそりと共有しあっているのかもしれないな、と想像したりする。そんな小さな至らなさが肩を寄せ合い積み重なって、この世界をなんとなく成り立たせているのかもしれない。
 満月を目にすると、僕は自然と海亀の産卵を思い出すようになった。涙を流しながらひっそりと卵を産んでいる孤独な雌の海亀のことを。それから、多賀麻依子のことを思う。僕の腕の中で身を小さく固めて泣く、棒切れのような腕と足をした女の子。

 他の誰かには取るに足らないようなものが、胸の内側で少しずつ、かたちをとり重みを持ち、熱を蓄え始めて、意味を獲得していく。僕たちはそうやって、世界を自分本位に重み付けしていく。それは幸福な偏りであり、やさしい束縛でもある。そしてそれは僕たちの影をそっと地面につなぎとめてくれる。心がばらばらに解けてしまわないように。

 いつかそんなことを、多賀麻依子にうまく伝えられたらいいなと僕は思う。
 人気のない砂浜で、満月の姿を映す漆黒の海を見ながら。あるいは、それに似た静けさと穏やかさに満ちた、どこか美しい場所で。




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