玄人娼女 「何を聴いているの?」 ホテルのロビーに渦巻く人々の喋り声の低いざわめきと、イヤホンから響く細く高いバイオリンの音色。その向こう側から聞こえてきた男の声を合図に、私はゆっくりと目を開けた。 目の前には一人の男が立っていた。二十代半ば、短い黒髪、細いフレームの眼鏡。几帳面そうで感情のない細い目。中肉中背、白いシャツにグレーのパンツ。 容姿には、目を引くような特徴は何一つない。ほとんど匿名的なくらいに。それでもそれは確かに、事前に知らされていた通りの服装だった。 私は小さく微笑んで、片方のイヤホンを外し、黙って差し出す。男はしばらくそれをじっと見つめてからようやくその意味に気がついて、受け取って自分の耳に当てた。 「クラシック」 彼は抑揚のない声で言った。 「ブラームスの、バイオリンソナタ……一番」 「『雨の歌』」 私は付け加える。男は小さく頷いてイヤホンを外して返し、私の向かいの一人掛けのソファに座る。そして黙り込んだまま、その無表情な目で私を観察し始めた。 その追究するような視線が、私の顔、髪型、服装、身体のラインを、じっくりと辿っていくのが分かる。私はそんな風に見られることには慣れている。そしてそれは彼らの権利でもあるのだ。 私に備わっているもの。真っ直ぐな黒髪。控えめな、けれど他人から見られることをはっきりと意識している化粧。ローウエストで切り替えられた紺色のサテンのワンピースにシルクのカーディガン、エナメルの黒い靴。年齢の割にシックな服装は相手の要求どおりのものだ。 そういうものに男が一体どういう反応を示すのか、私は注意深く見守った。自分が眼を引くほど美しくもなく、そして醜くもないことを、私はちゃんとわかっている。中には願っていたような容姿ではないことに失望の色を見せる相手もいたけれど、大半の男性は、私が美しくもなく醜くもないという事実を発見して、なぜか安心するらしかった。奇妙なことに。 けれど目の前の男は観察を終えて、安心したわけでも失望したわけでもなさそうに見えた。ただ、何かを納得したように小さく頷いた。 「若いね。幾つ?」 「二十一歳」 「クラシックが好きなの?」 私は首を振る。 「この曲が好きなだけ」 「なぜ? 何か理由のようなものはある?」 奇妙な「面接」だ。 「……人がたくさん居るところで聴くと、色んな音が雨音みたいに聞こえるから、それが好きなの。とても落ち着く」 私の答えに、男は何も言わなかった。やがて「行こうか」と立ち上がる。私も黙って席を立ち、男の少し後をついていく。 「奇妙なものだな」 歩きながら、男が小さく呟いた。 「娼婦がクラシックを聴くなんて」 独り言のようなので、私は何も答えない。 「そう言えば、君の名前は?」 ホテルの部屋に入りドアを閉めた時に、男がふと思いついたように尋ねた。私は男の目を見上げて、軽く肩をすくめる。 「もしも何か呼びたい名前があるのなら……」 「そういうんじゃない。ただ便宜上、ないと不便だから」 便宜上。 「便宜上の名前は、リコ」 「リコ?どんな字を書くの?」 「カタカナで、リコ」 「わかった。じゃあリコ、座って」 広い部屋だった。正面に小さなテーブルと優雅なソファ、テーブルの上には生花が活けてある。部屋の隅には頼りないくらいに華奢な造形の書き物机が置かれていて、その奥の開いたドアの向こうに、巨大なダブルベッドが見えた。小さなスクリーンくらいありそうだ。アラベスク模様の入った深いグリーンの絨毯は一歩踏み出すごとに軽く足が沈む。 男の年齢とは随分不釣合いな、豪華な部屋だ。或いは、実年齢よりもずっと若く見えるのかもしれない。 少し迷ってソファの方へ向かうと、「そっちじゃない」と男が言い、寝室へ歩いていく。私は黙って着いていった。 「座って」 促されるまま、私はベッドの縁に腰掛ける。 男は書き物机の前の小さな椅子を持ってきて、ベッドから少し離れたところに置き、腰掛けた。腕と足を組み、背もたれに寄りかかり、じっと私を見る。そして言った。 「さて、リコ。君には何が出来る?」 さあ。 私は肩をすくめる。 「特別なことは何も。ごく普通の、娼婦らしいことだけ」 「君は少し、特別な……性質だと聞いたけど」 男は少し迷って、「性質」という言葉を使った。 「うーん……私が特別というよりは、私のところに来るお客さんが特別なの」 私は靴を脱ぎ、ベッドの上にするりと足を乗せて、横向きに揃えて座る。なめらかなシーツを足先でかき乱すと、静かな衣擦れの音が部屋に響いた。 「色んな人がいるの。ずっと自分の仕事の話を延々とするだけの人とか。あとは、マッサージしてくれ、っていう人も。いわゆるそういうマッサージじゃなくて、ごく普通の、娘がお父さんにしてあげるようなやつ。別々に部屋を取って、携帯電話でずっと話をしてくれっていうお客さんもいた。時間中膝枕をして欲しがる人とか、ただ抱き合っているだけの人。一番多いのは、制服とか誰かの洋服を持ってきて、これを着て傍にいてくれ、っていうの。どれもこれも、わざわざ娼婦を買わなくても出来そうなことなんだけど」 「なるほど」 男は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。 「そのお客達は一体何がしたかったんだろう?」 「わからない。でも、どうしてそんなことがしたいの? なんて訊かないのが、娼婦のマナーだから」 「娼婦のマナー、ね」 男が口の端を歪めた。少し経ってから、今彼は笑ってみせたのだ、と気づく。別に皮肉で笑ったわけでもないらしい。奇妙な笑い方。 「それじゃあまず手始めに、僕とも話をしよう。何でもいいから」 「いいわよ。どんな話?」 「そうだな……君の話をしよう。君が僕に質問するのは無しだ。質問は僕がする。いいね?」 私は頷く。 「それから、絶対に嘘をつかないでくれ。答えたくないことは答えなくていい。黙って首を振ればいい。その場凌ぎの適当な答えを用意して嘘をつく必要はない。約束できる?」 私はもう一度頷く。 何を言われようと、何が起ころうと、私は従うだけだ。 「君は二十一歳だったね。大学生?」 イエス。私は小さく頷く。 「どこの大学に通ってる?」 私は首を振る。それは答えられない、という返事の代わりに。 「じゃあ質問を変えよう。小さな頃から成績は良い方だった?」 頷く。 「どのくらい?」 「大して努力をしなくても優等生って呼ばれるくらいには」 「勉強は好きだった?」 「あまり。知識を吸収したりそれを応用したりするのは好きだったけど、いい成績をとったり、いい学校に入ったりすることには興味を持てなかった」 「君は随分育ちが良さそうに見える」 「服装のせいかも」私は肩をすくめる。 「家は裕福な方だと思う?」 「中の上、あるいは上の下。お金に困った覚えはないから、裕福なんだと思う」 「両親のことは好き?」 私は思わず黙る。言葉にならない感情の塊が胸の奥底からどろどろと湧き上がり、思考を圧倒する。息苦しさをしばらくやり過ごして、ようやくほっと息をつき、首を振った。 「答えられない」 「ふむ、なるほど」 と、男が言った。 一体この人は何がしたいのだろう。 男は口元を手で覆い、私をじっと見つめる。その無表情で分析的な視線は見られている者を落ち着かなくさせた。そこには、ほんのわずかな分量ずつ皮膚の表面を削り取っていくような緻密な鋭さがある。知らないうちにじわじわとねじを抜き取られて、それと気づいた頃にはばらばらに分解されているのだ。 「君が娼婦になったのは、なぜ?」 男の言葉に、私はまた、すぐに反応することが出来なかった。私がじっと黙ったまま瞬きを繰り返すのを見て、男が尋ねる。 「お金のため?」 ノー。私は首を振る。 「じゃあ、セックスがしたいから」 また私は首を振る。でも何も言えない。 「答えられない?」 私は小さく息をつき、言った。 「答えられると、思う。ただ、嘘をつかずに答えるのなら、随分長い答えになりそうだから」 「構わない」 男は腕を組み直す。 「時間のことは気にしなくてもいい。話せるだけ話してみてくれ」 「でも、すごく変な話なの。面白くもないと思うし、意味が分からないかもしれない。それでもいいの?」 私の問いに、男はまた口の端を歪めて微かに笑った。 「そういう話が聞きたいんだ」 私はしばらくの間沈黙して、言葉が適切な形としてまとまり始めるのを待つ。それから話し始めた。 |